こんな話を耳にしました
爺「山にカブトムシを取りに行くぞ」
孫「え?どうして山に行くの?」
爺「カブトムシがいるからに決まってろぉ」
孫「え?違うよ、カブトムシはスーパーにいるんだよ」
こんな話も
先生「水はどこから来ていると思う?」
小学生「だいどころー!!」
こういう話を聞くと、人の足が地から離れつつあるように思えてなりません。
私は、山で水を飲むと、水の味から、山を飲んでることを感じられる気がします。
例えば、日光鬼怒川などに行くと、川のほとりでアユの塩焼き屋があったりします。アユを頭から丸ごと食べるとき、私はこんなことを感じます。
おいしい!
ンっ、ちょっとここの部分は苦味がある…
ここは骨があるな…
あ、この部分はまたちょっと違う味がする
この単調・単純でない感じ、この複雑な感じ、これが川の味、自然の味なんだなぁと。
消費社会にあって、我々の身のまわりのものは、効率化のために複雑なものが単純なものに置き換わりはじめています。
しかし、自然そのものが複雑性を失ったわけではありません。
そのことを忘れ、自然から離れた消費をしていると、自分もいつの間にか地に足がつかなくなってきているのかもしれません。
↑フィス長 マツヲ近所
中東の国にはこんなことわざがあります。
「我々はお金が無くても生きていけるが、ヒンドゥークシュ山脈の雪が無くては生きていけない」
山の雪が無くなってしまえば、大切な水が供給されないことを例えたことわざです。地に足をつけ、自然と共存している国の考え方がうかがえます。
↑ヒンドゥークシュ山脈(wikiより)
もし我々日本人が、このことわざを使うとしたら
「我々はヒンドゥークシュ山脈の雪が無くても生きてはいけるが、お金が無くては生きていけない」かもしれません。
フィス長 マツヲ